《2日目》
朝、4時30分に目が覚めました。退屈なので、宿のまわりを散歩しました。
今日は「ひめゆり平和祈念資料館」に行く予定ですが、開館は9時なので、それまでに荒崎海岸に行くことにしました。
荒崎海岸はひめゆりの子たちの最期の地です。多くの子がここで命を失いました。
荒崎海岸にはどう行けばいいのか? レンタカーのナビには出てこない。道もない。
宿のおかみさんに聞いて、とりあえず、環境美化センターに行って、その近くの駐車場に車を停めて歩きました。ナビで見ると、すぐ近くのはずです。
荒崎海岸
この荒崎海岸は、ぜひとも行きたかった所なのです。今回沖縄に来た目的の一つは、この海岸を見ることだったのです。
さとうきび畑の中を汗だくになって歩き回りながら、当時ひめゆりの子たちも、夜、この道を歩いたのかもしれない。まわりは死体だらけだったかもしれない。そんなことを考えていました。
ひめゆり平和祈念資料館
前回沖縄に来たとき、ここに入ることができませんでした。今回、沖縄に来たもっとも大きな目的は、この資料館を見ることだったのです。
館内は写真は撮れませんので、写真の数は少ないですが、ビデオを見たりして、ちょっとゆっくりしました。
米須海岸
荒崎海岸から摩文仁に行くまでには米須海岸を通ります。ちょっと見ておこうと、
立ち寄ることにしました。
米須海岸に行く途中、おもしろいものがありました。
近寄って見ると・・・、
沖縄は珊瑚でできた島というから、そういうことも関係しているのでしょうか?
それにしても、海岸の近くにダムを造るっていうのがあることをはじめて知りました。
真壁ちなー
昼食タイムです。昼食はここと大阪にいるときから決めておりました。
アブチラガマ
午後は、できるだけたくさんのガマを見ることにしました。まず、アブチラガマに向かいます。
「それでは、どうぞ。」とか言われて、なんか、僕ひとりでガマに入りました。(ガイドさん無しでもいいの?)と思いましたが、まあ、係の人がそういうのならまあ、いいか。
しかし、たったひとりで真っ暗闇のガマの中を歩くのは、正直怖かった。
勇気を出して、ガマの中で懐中電灯を消した!!
感じる! 多くの人の気配を感じる!
耐えきれず、懐中電灯を点けました。
ガマの中は、ごつごつしてました。下が見えなくて、足をぐねってしまいました。
このような所で傷病人が寝かされ、治療をされていたとは……。
白梅学徒隊の壕
女子学生が看護兵として従軍したのは、ひめゆりだけではなく、他にもあったん
ですね。
ここは第二四師団第一野戦病院ということだったようです。
ここに県立第二高等女学校の生徒55名が昭和20年3月24日に配属されたということです。
その前日23日には、県立第一高女生徒と女子師範学校生徒(ひめゆり学徒)が南風原陸軍病院壕に配属されています。
55名のうち9名が健康上の理由などで除隊となったので、46名になります。
4月下旬~6月3日まで、5名が新城分院壕(ヌヌマチガマ)に派遣されました。
5名は6月3日にここに戻りました。
戦況が激しくなったので、6月3日ここの壕が閉鎖され、看護隊も解散になりました。
生徒達はあちこちをさまよい、命を失うものもいました。
師団の移動にともない、多くは国吉の壕に移動しました。
46名中22名の方が犠牲となられたということです。
東風平から少し離れていますが、国吉にも行ってきました。
これが白梅の塔です。
林の中にぽつんとありました。ひめゆりの塔のまわりにはお土産屋さんやレストランなどにぎやかなのに比べて、静かでした。
僕以外に年配の方が一人、お参りに来られていました。
糸洲壕
道を車で走ってたら、糸洲壕の表示板があったので、寄ってみました。
陸軍第二外科壕ということです。
畑の中にありました。小さな入り口です。
轟壕
案内板も何もないので、確かにここであると断言はできないなあと
思っていたのですが、その後、ここが轟壕であることが確認できました。
この壕は、村人たちが避難してきたところに、日本軍が入ってきて、混在状態だったようです。島田知事も一時ここに避難してきたようです。
摩文仁の丘
この時点で午後5時近くなっているので、平和祈念資料館は間に合いません。
しかし、行ってみることにしました。
摩文仁の丘は、すごく広い公園になっていて、平和祈念資料館、平和の礎、各都道府県の慰霊塔などがあります。
陽はもう暮れようとしています。ぼくは、あちこち歩き回ったため、くたくたで、かき氷を食べて、ぼーっとしておりました。
さて、宿に帰るとするか・・・。
(『沖縄ひとり旅』の記録はここまでです。ここで力尽き果てましたorz)